今日も(今も)たかじんのそこまで言って委員会を眺めているんですが、秋葉原の無差別殺傷事件に関して桂ざこば氏が
”勝ち負けをつけないのはおかしい!”
という旨の発言をなさいました(後半ちょっと脱線してましたが^^;)。
私もその意見に同意します。ブラックジョークの類でしょうか、
”最近の小学校では徒競走に順位をつけない”
なんて話がよく出てきますが、誰が見ても優劣が明らかな事象を見て見ぬふりをすることはよけいに”歪み”を生むんじゃないのかと思うんですよね。
”差別”はいけないと思う。けど、”区別”をなくすのはやっちゃだめだろうと思う。
「誰一人として同じ人間はいないんだ」
そう説明してるのに、徒競走はみんな1番。劇ではみんな主役。
あえて言わせていただきます。
頭おかしいんじゃないの?
学校は社会の縮図です。そりゃ大人の社会よりは厳しさは薄いでしょう。ですが集団行動という点においては学校も会社もそう大差ないでしょう。
頑張ったら徒競走で1位になれた。1位になったら「すごいねー!」って言ってもらえた。
頑張ったけど徒競走で最下位だった。走るのは苦手だけど自分の精一杯で走った。「頑張れ!」って言ってもらえた。
順位は1位と最下位。でも走った本人が何に価値を見出すかでしょう。私のこの書き方は偏っているので価値を押し付けていることになってしまいますが、
「みんな頑張った。順位は関係ない。みんなが1番だ!」
ってのもある意味で押し付けではないんでしょうか?
そういう考え方はあっていいと思うし、その指導方法が適切な場面もたくさんあるでしょう。
ようは、臨機応変にできやせんのか?と。
自分の子供が1番であってほしい。親がそう思うのはとても自然でしょう。けど現実には1番になれる子はその分野ごとに、その時ごとに一人なんですよ。だってそれが1番ってものなんだから。
徒競走で1位がいるのは2位以下がいるから。劇で主役がいるのは脇役がいるから。それを否定するのは一体なんなのかと。
「強い奴もおれば弱い奴もおる。それはしゃーないんや。弱い奴は強い奴にひっついていくしかないんや!」
とはざこば氏の言葉ですが、実際そういうものだと思いませんか?
なんでもかんでも自分で解決できる人はいないでしょう。だからこそ相談する友達がいて、先生がいて、親がいるんだろうと。何もかもを頼るのはダメだけど、何もかもを自力で解決なんてできやしないよ。
だって、人は一人でなんて生きてないんだから。
なんかそのあたりずれてると思うんだよな、今の教育方針と言うか学校教育って。今後どんな方向に進んで行くんだろうねこの国は・・・。
日常 News
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