2007年5月21日月曜日

それは見方を変えてみるべきだ

現代「あだ名」事情 「太陽にほえろ!」式は衰退
確かに、私の回りでも「〜っち」とか「〜ちゃん」といった、あだ名というよりは愛称で呼ぶのが一般的で、変わったあだ名で呼んでいる相手は片手で足りる位だ。
けれどそれ以外の場面で「セカンドネーム」とでもいうような、別の自身の呼び名というものは当たり前のように使われている。HNがそれだろう。
もちろん、HNを自身の名前からそのまま取っている場合もあるだろう。けれど、そうでない場合も多いんじゃなかろうか。
私なんかは完全に名前とは関係ない。けれど、こっちの名前で呼ぶ人もわずかながらいたり。まぁほとんどいないけれど^^;
そも、「ジーパン」や「マカロニ」なんてのが例として出ているけど、当時にもそんなあだ名で呼ばれていた人が本当にいたのか疑問。いやいたのなら申し訳ないが、私の父親が自分の知合いをそんな風に呼んでいるのを見たことが無い。これはもう凝ったあだ名というより命名だ。かっこわるい云々以前に、多分思いつかないんだろう、そんな名前が。
あだ名といえど、呼んでそれが識別名だと気づいてもらえなくては意味が無い。だから必然と本人からそう離れていない言葉でくくられる訳で。
また、記事中にもあるように、身体的特徴から付けられるあだ名も確かにあったかもしれない。難しいのは、パッと聞くとコンプレックスになっていそうなあだ名でも本人があまり気にしていない場合もあり、それで円滑に人間関係が構築できていることもあるってところだろうな。なんでもかんでも禁止するのはいかがなものかなと。
あだ名で呼ぶっていうのは確かに距離感としては近い方だと思う。けど、〜ちゃんとか〜っちでも十分に親愛は感じられると思う。
もっというと、名前を呼び捨てる関係にある方が親密だと思うんだがどうだろう?
まぁ、人それぞれの価値観なんだろうけどさ。面白いあだ名なんて、物語の中でしかお目にかかれないと思うんだよ。博士なんてあだ名のやつ、私の回りにいた試しなんてないんだぜ?(笑)



もっとも残酷なのは時間だ
こちらの都合などお構いなしで
気づいたときには手遅れで、しかも絶対に、逆戻りすることは出来ない


ラグナロクEX・BETRAYER ランディ・ゴルト
時間は誰にも平等で、時に優しく、そして残酷。
どう足掻いたって過ぎた時間は取り戻せないのだし、せめて。前を向いて、明日の自分は今日の自分より成長した自分でありたい。

2 件のコメント:

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    私やYabaは下手したら本気で博士になっていたかも知れないな(笑
    いや、その場合呼ばれるのはDrか?(笑

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  2. SECRET: 0
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    ドクトルだと!!!(ぇ

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